古代から中世における太田川河口の位置については、入手できる範囲の資料のほとんどが現・祇園大橋付近にあったと論じていますが、いずれも合理的根拠がありません。 まず、それらの資料の記述内容を一覧表に示します。
これらの資料で述べられている「倉敷」は厳島神社領の荘園の倉敷で、年貢の保管・集積のために設けられました。古文書に記されている地名などから、位置は旧祇園町の南部の、太田川の支流に面する場所に確定され、疑う余地はありません。 ところが、太田川河口の位置については、それを検証することもなく、単純に「倉敷は河口の近くにあったはず」という「思い込み(論理の飛躍)」で記述が統一されています。 ここには、年貢を運送する船の構造や大きさ、湊の立地条件、地形の成り立ちなどについての検証がまったくなされていません。 一覧表にしてみると、この「思い込み」の原因が「新修広島市史」の記述から読み取れます。(「概観広島市史」は「新修広島市史」に先行して発行されたダイジェスト版で、双方の執筆者の視点は同じようです。) ここに、「荘園では年貢を中央の領主に送るため海岸に倉敷を設け、ここから大船に積載して輸送した」と記しています。しかし、旧祇園町にあった倉敷の領主は厳島神社ですから、中央の領主ではありません。また荘園の規模が小さいから大船を必要としません。 この誤った前提を外して考えると、ここの倉敷が河口・海岸の近くにある必要のないことは明らかで、中・小型の船が行き来できる程度の水路が海に通じていれば充分だと言えます。 また、仮に河口付近に船着場を設けた場合、瀬戸内海の潮の干満差は2m以上ありますから、満潮時と干潮時とで接岸できる位置が大きく変動します。船着場を人工的に掘り込むとしても干潮時の汀線まで2km近く水路を掘る必要があり、しかも掘った水路は満潮時の潮流で崩れてしまいます。さもないと荷物の積み下ろしは満潮時に限定されます。いずれにしても現実的でありませんから、太田川の場合、河口より4km以上も遡って倉敷を設けたのは合理的な判断で、倉敷を河口の近くに設けるのは非合理的です。 古代・中世の輸送船は準構造船と呼ばれる構造で、大木から刳り出した船底部(刳り船)に船首・船尾・両側部の板を接いだものです。大小の違いはあっても、船底部の構造については同じで、川舟・海船の違いもありません。積載量と利用される船の大きさとは相関関係があります。 内陸の大荘園として知られる備後の太田荘の場合、年間の年貢1,800石と伝えられ、尾道から年貢を積み出して領主の高野山へ送っていましたが、小は10石積み、大は50石積みの船で分割して運送しており、必ずしも大船を使っていません。 まして、厳島神社領の荘園は規模が小さく、運送距離も短いから小舟で充分です。30石積み程度の船でも、太田川下流域を航行できます。 古代・中世の太田川下流域の地形については、20,太田川三角州②、牛田荘と五箇浦、補足2、太田川三角州の発達、を参照ください。 当時の太田川河口は、既に現・平和大通りの近くにあったのです。 つまり、旧・祇園町南部で太田川本流に乗り、平和大通り付近で海に出て、海岸沿いに大野浦へ行き、潮流のタイミングを見て対岸の厳島へ渡ることになります。 厳島神社の最大の所領は佐西郡にありましたが、ここの積み出しは廿日市で厳島はすぐ間近ですから、倉敷を設けた記録もありません。 仮に、太田川流域から川舟で積み出した荷物を海舟に積み替える必要があるなら草津または江波嶋を利用できますが、その必要はなかったようです。 中世末、太田川下流域を活動域としていた川内衆と呼ばれる集団が、毛利氏が陶氏と戦った厳島合戦で兵員の輸送に与っていますが、これも川舟・海舟の区別の無いことを証しています。 また、新修広島市史(p201-203)が記す太田川放水路遺跡は、この付近に海岸線があったという根拠になりません。貝塚の位置から河口や海岸線を推測することはできないし、井戸が海岸に近ければ塩水が浸透して使用に耐えません。井戸や陶磁器の破片が多数確認されている点からは、この遺跡は河原に臨んで造られた市場か、もしくは倉敷の住人だったと考えるのが合理的です。貝殻が散乱している層を自然の貝層として付近に海岸があったと市史が推定しているのは稚拙で、住人のゴミ捨て場から洪水で流されたものです。 むしろ、新修広島市史がp201の中で紹介しているように、弥生後期の遺跡、牛田・西山貝塚に淡水性のヤマトシジミなどの貝種が確認されていて、弥生時代には既に牛田付近の水面は淡水性であり、海岸ははるか南に後退していたと推定できます。 「広島県史」以下の出版物は、「新修広島市史」の誤りを検証することもなく、その主旨を追随しているだけですから、怠慢の極みと言わざるをえません。 本来は「河口」の位置について語るには地理・地形に関するデータ・資料に基づくべきなのに、「他国の倉敷が河口の近くにあるからここの倉敷も同様だろう」という発想・論理の飛躍は、思考停止を起こしているとしか思えません。 河口・海岸線の移動に関する最も大きな要因は海水準変動と地盤の隆起・沈降、および土砂の堆積であるのに、これらについての検証をすることもなく、根拠の無い思い込みに捉われたまま歴史を語るのは非科学的です。 「新修広島市史」が編集された1950年代はデータ不足で止むを得ない面もありますが、1980年代以降の出版物は充分なデータもありながら、それを調べず、昔の学者の説に盲従しているだけです。 また、鎌倉時代に太田川支流の根之谷川流域を主な領域とした三入荘の倉敷も太田川下流部に設けられたと伝えられます。この当時の年貢は多くが銭納ですから、根之谷川が太田川本流に合流する地点の近くに倉敷を設け、米などの産物を小舟で最寄の市場に運び、それを売って得た銭貨を京の領主まで届ける、というのが合理的な判断です。 一方、広島県史・原始古代編のp312で「(古代山陽道は)、太田川下流はデルタ地帯で馬による渡渉が困難だったため、遠く北に迂回したのである。」と記し、新修広島市史①のp240で「(古代山陽道が太田川デルタ地帯を通らなかったのは***)、官馬の通行を主眼にするゆえ、***流れの不安定な川の渡渉をできるだけ避けようとした***。」と記しています。「渡渉」とは「川を渉る」意味ですから河口が遥か南にあったことを意味します。上表に示す荘園・倉敷の項目とは執筆者が異なるのかもしれませんが、同じ出版物の中で矛盾した記述が並存しています。 おそらく、既存の出版物の記述を寄せ集めて切り接ぎでそれぞれ(県史・市史)の文章をまとめているのかもしれません。 さらに言えば、「馬による渡渉が困難だった」ということにも合理的な理由がありません。太田川下流のデルタ地帯は水深が浅いから馬はもちろん人も渡渉が可能です。根拠も無く、漠然と「渡渉が困難だった」らしいという空想で昔の学者さんは語っています。倉敷の近くに河口・海岸があったはず、という思い込みに捉われて、無理なこじ付けをしています。 一番滑稽なのは「毛利元就と地域社会(2007年、p29)」の記述で、天文23年(1554年)=広島築城のわずか35年前に、太田川河口が旧祇園町・祇園地区の堀立付近にあったと理解していることです。思考力の欠如も度を越すと滑稽としか言えません。 興味深いのは2009年に「広島市文化財団・広島城」が編集し「広島市」が発行した「広島湾頭をめぐる歴史群像」と題する冊子にある、中世初頭の広島湾付近の図です。この図では太田川の河口は現・横川付近にあり八日市から河口まで約3.5km離れています。 この図に示す海岸線の位置は、概ね現代の地形図で海抜2mの等高線付近に描いていながら、例外的に現・広島市街地の北側のみ海抜3.5mの等高線付近に描いています。海抜で1.5mの差は、水平距離で約1500mの差になります。平和大通り附近までのあと1.5kmを踏み込めなくて、無理やり太田川河口の位置を北方へ寄せておきたいために地図の表現を偽装しています。 なお、この図には、「海岸線については中世初頭の満潮時を想定」という説明が付けられています。従って、干潮時には広大な干潟が現れることは認識されているようですが、その範囲については具体的に理解されていないようです。「干潮時を想定」した図に変えれば、沿岸地形はもっとわかりやすいのに、意識的に避けているようです。 これは、中世の海岸・河口は祇園大橋付近にあった、という昔の学者の説と、中世には既に平和大通り付近まで南下していた、という科学的データの中間を採った、妥協の産物です。ここには、真実を追究し、それを一般市民・読者に伝えようという姿勢がありません。 とはいえ、同じ「広島市文化財団・広島城」の出版・編集でありながら、上記、「毛利輝元と二つの城、(2003年)から「しろうや! 広島城・広報紙,No.22(2009年)までの4件に比べると。「広島湾頭をめぐる歴史群像」の図は、短期間で進歩されたことは評価できます。 太田川三角州の発達の経過については、補足2、太田川三角州の発達を参照ください。 |